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第679週 写文俳句4月その2

明日ありと靴磨きけり冬の檻

季節の変わり目、新年度のスタートは人生の節目でもある。節目の乗り越え方によって、その後の人生の方途が変わることもある。

人生につきまとうさまざまな愁いの中で、春の愁いは贅沢な愁いであるかもしれない。なぜなら、春愁は絶望的な環境や、不幸のどん底、あるいは生命の保障のないときにある者にはほとんど感じられない。春愁の源である艶麗な春を感じる余裕がないからである。季節に対する位負け以前に、不幸のどん底にあっては、季節そのものを感じる余裕がない。

だが、一昨年の夏、アウシュヴィッツを訪問したとき、私は認識を改めた。ナチスによってアウシュヴィッツに強制連行された人々は、ガス室に送り込まれる直前まで希望を捨てなかった。遺品の展示場の一隅に、靴積みの缶が山積みされていた。彼らは明日を信じて絶望的な環境の中で、靴を磨いていたのである。

藁を敷いただけの三段、あるいは四段ベッドに五百人が縦に押し込まれ、トイレは二つしかあたえられなかったという非人間的環境において、靴を靴墨で磨いて、明日への望みを捨てなかったという。

春愁をおぼえる都度、私は靴を磨くようになった。

初出:2010年4月梅家族(梅研究会)