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第688週 写文俳句6月その4

梅雨走る傘に面影置き忘れ

そのうち彼女が時計を見てそわそわし始め、おもいあまったように、「××に行くのは、このホームでよろしいのでしょうか」と問うてきた。××という地名を私は知らなかったが、
「このホームは高山行ですが」
と答えると、彼女は驚いて立ち上がった。折から別のホームに列車が入線して来た。ホームちがいであった。
「いまから走れば間に合いますよ」
と声をかけると、彼女は「有り難う」と答えて走り去った。

それだけの出会いであったが、彼女が去った後のベンチを見ると、傘が置き忘れられていた。慌てて呼び止めようとしたが、すでに彼女の姿は視野になかった。傘を持って追いかけようとしたが、私の乗るべき列車が入線して来ていた。発車時間まであまり間がなく、駅の遺失物係に届け出る時間に足りない。私は仕方なく彼女が遺留した傘を持って高山行の列車に乗った。

初出:2010年6月梅家族(梅研究会)