第588週 写文俳句7月その4

学生時代最後の夏、穂高に単独登山した。途中の雪渓で単独行の若い女性が滑落した。下方の雪渓の果てには岩が凶悪な牙を剥きだしている。彼女の少し下方を登っていた私は、ピッケルを雪渓に突き立て、際どいところで彼女の滑落を止めた。

それが縁になって、毎年夏、穂高で出会った。何度か穂高のデートを重ねたある夏、彼女が約束した場所に姿を現わさなかった。今日のように簡単に連絡を取り合える携帯があるわけでもない。私は寂しく一人、穂高に登って帰宅して来ると、彼女からの手紙が待っていた。近く結婚するという知らせであった。そして末尾に、「あなたとの想い出を宝にして嫁いで行きます。あなたは山ばかり見て、私を見てくれないのが寂しくなったのです。もう穂高でお会いすることはないとおもいますが、ご機嫌よう。そして、有り難う」と書き記されてあった。

何度も結びの文章を読み返しながら、私は胸を締めつけられた。好感を抱いていたが言い出せなかっただけである。その後しばらく喪失感が大きく、山に登る気がしなかった。つまり、恋と同時に山恋も失ってしまったのである。

夏は出会いの季節であると同時に、喪失の季節でもあることを、そのとき私は知った。だが、千載一遇の機会を失ったにもかかわらず、彼女が歩んでいくであろう新たな未来を、かつて穂高の頂上に立って彼女と共有した蒼い遠望と重ねていた。夏の想い出が遠く感じられるのは、あの穂高の遠望のせいかもしれない。

想い出を置き去りにして雲や立つ

120821-153558

初出:2011年7月梅家族代(梅研究会)