第659週 写文俳句12月その1

虐殺の慟哭聞こゆ熱き洞

ノグンリは韓国の首都ソウルから南百六十キロ、釜山から北二百四十キロに位置している忠清北道永同郡の山間にある小さな村である。ソウルの公演後、第二の公演地清州に向かう途上、私はノグンリに立ち寄った。

ソウルから南下をつづけたバスは、ようやく緩やかな起伏を連ねる山間に分け入り、車窓に密度の濃い緑が迫った。バスは置き忘れられたような小さな村に入った。村といっても民家はあまり見当たらず、鉄道線路が走る下に二つのトンネルが穿たれ、トンネルの壁に白い○印や△印が描かれている。

トンネルの手前にテントが張られて、人が群がっていた。そこが朝鮮戦争勃発直後、約四百人の避難民の中に北朝鮮軍兵士が紛れ込んでいるという疑惑のもとに、女性、子供、老人の別なく、三日間かけて虐殺したというホロコーストの現地であった。○や△のマークは虐殺の弾痕であった。

我々がノグンリを訪問した当日が、第五十九周忌期にあたり、犠牲者の合同慰祭祭が行われていた。ツアーの訪問日をこの慰霊祭に合わせていたようである。

驚いたことに慰霊祭の参加者は、韓国の人より日本人観光客が圧倒的に多い。私はノグンリという名前をどこかで聞いたような薄い記憶があったが、その地がそのような凄まじいホロコーストの場所であるとは知らなかった。

生存者が謝罪と損害賠償を求める陳情書を米国政府に送ったが、三十数年間無視され、AP通信の取材調査によって世界に発表され、二〇〇一年一月,ようやくクリントン大統領が遺憾の声明を発表した。だが、まだ謝罪には至らず、生存者の訴えがつづいている。

地元では、ノグンリをこのような虐殺を二度と繰り返さぬよう、ノグンリを老斤里(ノー・ガン・リ)(兵器を拒否する里)として世界に発信し、このような蛮行を伴う戦争を再発させぬための防波堤にしようという運動を起こしている。

慰霊祭の後、生存者の証言集会に出席した私は、その一人、当時八歳、小学校二年生であった鄭求学(チョン・グハク)氏から、銃撃にあって鼻柱を吹き飛ばされ、顔に二つの鼻穴だけを残し、トンネルの中で三日間生きつづけて、探しに来た兄に助けられたという証言を聞いた。兄が水を飲ましてくれたが、全身のあちこちから水が漏れたという。

鼻も頬もなくなった鄭氏を見た父親は「とても助からないから山に埋めて来い」と命じたが、鄭氏は重傷に耐え、生き残り、整形手術を何度も受けて、その後、魚の行商をしながら事業に成功して、現在、永同ロータリークラブ会長として証言をつづけている。

顔を奪われた鄭氏は、その凄まじい死線をさまよった人とは別人のようなよい顔をしている。悟りを開いた高僧のような顔は、どんなに絶望的な環境にあっても希望を失わない意思を示している。

女性証言者梁海淑(ヤン・ヘスク)氏は爆風に吹き飛ばされ、飛び出した左の眼球が紐のような視神経の末端にぶら下がっているのを、自らの手で左眼の洞に嵌(は)め戻したと語る。聞くだに卒倒するような虐殺の中を生き延びて、戦火の悲劇の再発を防ぐために証言をつづけている。

できれば耳をそむけたい、目を閉ざしたい、忘れたい、歴史の愚行蛮行に対決してこそ、人間は学ぶ。

初出:2009年12月梅家族(梅研究会)