第665週 写文俳句1月その2

虎落笛窓なき家をすれちがい

暦のない時代には、日の出や、入り日や、月や星の位置などによって時刻を刻んだ。

江戸期、旧暦の時代は、日の出と日没に昼夜の終始点を定めて、昼夜六刻ずつの十二刻に区分して、それぞれ十二支で表現した。日の出と日没を基準にするのであるから、季節によって昼と夜、また一刻ずつの長さが異なってくる。春分と秋分の日だけ昼夜同じ長さであり、昼夜刻、および昼夜の長短が異なってしまう。

例えば昼が最も長い夏至は、江戸で日照十二時間半、一刻二時間二十五分。昼が最も短くなる冬至は、日照九時間四十五分、一刻が一時間三十八分。一刻当たり最大四十七分の差が出てしまう。しかも、四半刻約三十分以下の二十分や三十秒という細かい時間の区分はない。こんないいかげんな時間区分で、毎日の生活を営んでいたのであるから、さぞやすれちがいや遅刻、早着などはあったであろう。

例えば赤穂浪士が何度も会合して、四十七士集合して吉良邸に討ち入るまで、相互の連絡は大変な苦労があったであろう。たまの逢瀬の恋人たちもすれちがい、悲しい想いをしたにちがいない。

時計が発明された後ですら、すれちがいは恋愛ドラマの定番になっていた。今日ならば「愛染かつら」や「君の名は」のような悲恋ドラマは成立しない。機械文明の発展は恋愛ドラマやミステリーの設定を極めて難しくしている。

今日の恋人たちは携帯電話一本の連絡で、なんの苦もなく出逢うことができる。身分差別や戦争などを含めて、なんの障害もない恋愛ドラマは面白くもおかしくもない。

むしろ、時間の奴隷となった今日の恋人たちは、はるかにスケールの大きなすれちがいをするようになる。

初出:2010年1月梅家族(梅研究会)