第674週 写文俳句3月その3

惑うても天に向かって立つ莟

三月、歩き慣れた散歩道での日毎に膨らむさまざまな莟を見ていると、人生の道程と重ね合わせてしまう。三月は人生にたとえれば、青春の第一期である。周囲の期待の重圧と、未来の無限の可能性を前にして、不安と希望に心が大きく揺れている時代である。これを「美しき惑いの年」と呼んだ作家もいるが、本人にしてみれば、無限という名前の可能性の重さをもてあましている人生初期であろう。

私は望むべくして小説作家になったが、これまでに書き重ねた作品を俯瞰(ふかん)して、当時、それらの一作も発表していない莟の時代、私は将来、にになるのか、なにかになる前に、果たして自分に生きて行く能力があるのかと自らに問い、野心と不安の狭間で揺れ動き、期待という重圧に押し潰されそうになっていた。

いまにしておもえば、それは発表前の我が作品の重さであり、作品を世に出す糸口すらつかめぬ、いや、その作品の存在の有無すら感知できない焦燥に焙り立てられていたのであろう。

莟自体の惑いの年は、私にとって美しくなかったが、後年顧みて、やはりその時期は自分の青春のコア核であったとおもいあたる。

人生第一期は未来の胎動と、自分の中に潜む可能性の陣痛に悶えていたのである。

その意味で、三月は社会への門口にたたずむ若者たちの陣痛の時期でもある。未来の胎動と、可能性の陣痛のない青春はない。つまり、三月は季節の青春期でもある。老若いずれにしても、この季節、青春を感覚する。そんな感覚が消えた者にとっては辛い季節であるかもしれない。

その辛さすら感じなくなった者にとっては、三月のあらゆる可能性を含む莟の季節は、風化した忘却の時期でもある。季節感が風化した人生は、あるいは悟りの境地かもしれない。

初出:2010年3月梅家族(梅研究会)