第613週 写文俳句1月その2

ただ一人流行(はや)らぬ神に初詣
人生の破片(かけら)投げ込む初願い

映画に、小身の旗本が、御利益が多いという噂を聞いて参詣した小さな祠の祭神が貧乏神で、これに取り憑かれて苦労するという話があったが、私の贔屓の社は貧乏神ではなかったらしく、初詣した年はよいことの方が多い。最初は百円の賽銭が、いまは千円になっている。

ところが、その社の御利益が多いという噂が立ったのか、次第に初詣客が増えて、近年では境内に赤々と篝火が燃え、蕎麦や汁粉がサービスされるようになった。参詣者が増えた分だけ、一人一人の御利益分け前が減ったのか、以前ほどよいことが起きなくなった。そのうちに社殿も改装されて、見ちがえるように立派になった。いまや置き忘れられた売れない社ではなくなった。

私は急につまらなくなった。大切な恋人や、独り占めにしていた秘宝を、多数で共有するような気がした。幸せは多数で分かち合えば分かち合うほど、その価値を増すものであるが、古い竹藪に置き去りにされていた社が変質してしまったような気がした。もはやその社の境内に立って、満天の星の光も見えなくなった。

それでも年の初めにはせっせと初詣をしているのは、一種の先取り特権者のような優越感があるからである。社が著名になり、参詣者が増えても、私が最初の発見者であることには変わりないという密かな自負があった。だいたい一年に一度だけ参詣して、その一年の御利益を集め、厄払いをしようなどとはさもしい了見である。

だが、昨年よいことがあった人たちですら、その延長線上にもっとよいことがあるようにと貪欲になる。昨年不幸つづきであった人たちが、起死回生人生をリセットして、今年こそはいい年になるようにと神仏に祈りを込めるのをさもしいと言っては酷である。

初出:2008年1月梅家族(梅研究会)