第707週 写真俳句歳時記

定まらぬ心のままに月清し

異常な猛暑つづきの夏の影響が長く尾を引き、九月どころか、十月にすら残暑が未練がましくこびりついていたが、十一月になると、さすがに秋構えも本格的となり、空が深くなる。

十一月は一年のうちで二月と並び、最も地味な月ではないだろうか。山野を染めた紅葉も退潮の一途をたどり、見るべき年間行事も少ない。

なにかと気忙しい十二月に比べて、年が替わるまであと一ヵ月をはさむ十一月は、忘年会にも早すぎるし、晩秋をゆっくりと楽しむ余裕もない。年頭に自らに約束した予定も、まだほとんど果たし終えぬのに、あと一ヵ月しか残されていないという焦燥に焙(あぶ)られる。

釣瓶落としに落ちる陽の速さは、時の速さと同調しているようである。西の空に凝縮する濃厚な残照は、未消化の予定の未練が煮つまっているように見えるのも、この季節である。

これが十二月になると、どう転んでもできないものはできないと開き直ってしまう。だが、十一月は簡単には開き直れない。一ヵ月の余裕がどうにかなりそうな気にさせる。計算すれば、為残した予定に対して日数が不足していることもわかるのであるが、あえて楽観的にとらえて、為残した仕事を後へ後へと引き延ばす。

倒産しかけた会社が決算月を間近に控えながら、なにか奇跡が起きるやもと、能天気に楽観しているような感じである。十一月は年末が近い覚悟と、時間の不足を認めたがらない楽観が軋り合う微妙な月といえよう。つまり、微妙に余裕があり、微妙に気忙しいのである。十二月に入るまで、もう一年が経過しかけているのだと認めたがらない。この微妙な月を写俳として保存すると意外に面白い。

微妙という言葉は、本来、繊細なデリカシーを意味していた。だが、今日的な理解はいささか異なる。イエスかノーか、白か黒か、はっきりと定義できない曖昧さに対して、微妙という表現を用いる。つまり、中途半端、いいかげん、無責任、玉虫色のごとく、無責任な表現である。

反面、微妙が包含する意味は広い。言葉の寛容度(ラティチュード)が広いのである。十一月は微妙という意味においてラティチュードの広い月といえよう。

ラティチュードの広さといえば、まさに写真俳句の世界である。凡写凡句が一体となって秀句秀写となる。未消化の予定をたっぷりと抱えて、まだ一ヵ月あると、無理な余裕の中で創った写俳は十一月の産物に向いている。

微妙な作品というものは微妙なときに生まれる。微妙が包含する繊細な寛容(ラティチュード)、厳しい決算月を控えて紅葉するような秋色至る十一月に、携帯、あるいはカメラを携えての写俳は、代表作になるかもしれぬ微妙な作品となるであろう。

初出:富士通写真俳句歳時記2010年11月