第602週 写文俳句10月その4

恥燃やす入り日もありて鰯雲

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春の旅は新たな出会いを求めて未来への門出のような気がするが、秋の旅は過ぎ来し方を振り返る。

おもえば二十代のころ、自分探しの旅に出て以来、依然としてまだ自分を探し当てられないような気がするのは、同じ場所を旅していても風景が年々変わっていくからであろうか。

芭蕉は移動する風景の中に句魂を磨いた。だが、今日の移動はあまりにも速すぎる。芭蕉が百四十余日かけて旅したおくのほそ道は、今日であれば数日でまわれる。また芭蕉の所要時間をかければ世界の二、三周はできる。速すぎる移動の中に見失った自分自身があるようである。

そんな高速で移動する風景の中においても、秋の雲はほとんど動かない。時折、飛行機雲が糸を引くが、飛行機の航跡だけあって消えるのが早い。芭蕉は自分探しの旅ではなく、片雲の風に誘われた吟行であったが、今日の旅行はスケジュールに縛られた移動になってしまった。高速の移動で浮いた時間を、更により速いライフサイクルで埋める。

本来、便利性の追求の目的は時間をできるだけ有効に使って生産性を高め、その成果による余裕で生活をエンジョイすることにあった。それが逆効果となり、人間を高速回転で締めつけている。幸福の追求が、我々が住む地球を破壊・損傷し、人間性を希薄にしている。例えば建設や平和と科学の進歩のために発明されたダイナマイトが、大量殺傷の兵器となった。

だが、物質文明の発展に伴う諸悪がいかに増悪(ぞうあく)しても便利性の頂上に立った人間は、決して下りられなくなる。我々がどんなに諸公害のない平和な、人間性豊かな世界への復帰を願っても、車や電気やガスのない時代には絶対に戻れない。電気やガスどころか、パソコンや携帯のない時代にも戻れないのである。

十月の空に流れる白雲は、そんな現代の人間のライフスタイルに警告を発しているように見える。

初出:2009年10月梅家族(梅研究会)