第643週 写文俳句8月その2

戦争のあとかたもなき簾(すだれ)かな (春樹)

一九四五年八月十五日、戦争が終わった。平和時であれば、祖霊を送り返す前夜、私の郷里、埼玉県熊谷市は日本最後の空襲を受けて、市街地の七四%が焼燬(しょうき)された。市の中心部にあった私の生家も被災した。

生家のかたわらを星川という小川が流れていて、火から水を連想したらしい父は、私たち一家を引き連れて星川に避難した。近所の人たちも同じことを考えたとみえて、星川に避難者が殺到した。父は本能的に、そこが危険と察知したらしく、避難先を郊外に転じた。

その夜の光景を、私は生涯忘れることができない。敵機が接近すると、空襲警報が発令されて、街には完全な灯火管制(ブラックアウト)が布かれる。灯火は蝋燭一本といえども消されて、街は暗黒の底に沈む。

だが、その夜、我が町は焼夷弾の雨を降らされ、市街地全域が炎上して真昼のように染め上げられた。夜間でも地平線に赤く染まった積雲が林立し、米空軍の超大型爆撃機B29の大群が低空を飛んでいる。父は広島、長崎に投下された新型(原子)爆弾ではないかと恐れていたようであるが、我が町に投下されたのは大量の焼夷弾であった。

避難中、その直撃を受けて亡くなった人も少なくない。安全圏から炎上する我が町を眺めながら、私は不謹慎ではあるが、それまでに見た最大のスペクタクルシーンであるとおもった。

翌朝、ようやく下火になったころ、我が家の跡を探しながら、一望の廃墟と化した市内を余熱に焙られながら星川端(ばた)に達した私は、愕然として息を呑んだ。平素であれば川底が見える星川に、死体が累々と積み重なっている。煙で窒息したらしく、死体はまるで生きているかのように生々しく、澄んだ流れの中で水遊びをしているように見えた。死者には知っている顔が多かった。一瞬の父の判断がなかったなら、私たち一家も、その死者の列に並ぶところであった。

翌日、一望の廃墟と化した市中の我が家の焼け跡に立って、わずかに焼け残った家のラジオから放送される天皇の終戦の詔勅を聞いた。難解な言葉が連ねられていたが、戦争が終わったという事実はわかった。大人たちは泣いていたが、私はなんとなく嬉しかった。

初出:2008年8月梅家族(梅研究会)